旧町名を巡る旅

PART.2 いざっ、侍町へ!

勾当台(こうとうだい)、外記丁(げきちょう)、長刀丁(なぎなたちょう)…。かつての侍町(さむらいまち)をたどると見えてきた、ちょっと驚く事実とびっくり人物伝。


 PART1で整えた旅の支度は万全! PART2では、いよいよ実際の旅に出発しましょう!

 知ってましたか? 勾当台は狂歌師花村勾当の屋敷があったところだったことを。 そして、外記丁の外記とは実在の藩士斎藤外記(せいとうげき)から付いたということを。そして、その子孫は今も仙台に住んでいるのです。
 侍町だった勾当台通から外記丁通界隈を歩きます。



勾当台通(こうとうだいどおり)


 旅の最初は、地上18階建て、宮城県庁前から始めましょう。

 このあたりは高いビルばかり。県庁の西側には、仙台市市役が、南側には国の行政機関などが入っている合同第一庁舎があります。まさに東北、宮城の行政の中心地ですが、さて、藩政時代はどんなところだったのでしょうか?

 調べてみると、伊達政宗の時代(1601〜)、宮城県庁のある場所には花村勾当の屋敷があったことが分かりました。彼は盲人の狂歌師として活躍し、政宗に認められて屋敷を与えられた人です。花村勾当の屋敷は高台にあったために勾当台とよばれ、この勾当台へ通じる道が勾当台通です。

 勾当台には、宝暦10年(1760)に藩校養賢堂が建てられました。教科には、外国語や数学もあり日本有数の先進的な藩校だったのだそう。

 勾当台通から国分町通に至る道が表小路ですが、これは養賢堂の正面(表)に面した通りであったために名付けられたものです。表小路には、養賢堂に付属する屋敷や教員の宿舎などもありました。

 つまり、勾当台一帯は藩の教育の中心地だったわけです。伊達版カルチェラタンですね。

森が多かった勾当台あたり

 勾当台には藩校養賢堂がありましたが、その北側周辺は欝蒼と木々が茂る林でした。まさに「森」の都だったのです。昭和30年あたりまではコウモリが飛んでいましたよ。現在の第一合同庁舎のあたりには伊達家の祈願寺・定禅寺があり、墓所がありました。怪談や狐狸にまつわる話も少なくありません。今では想像もできないことですが…。

 なお、表小路は、以前は皮坊町(かぼうまち)と呼ばれ、馬具などの皮細工をする人々が住んでいたところです。


逸見英夫さん/仙台市郷土研究会副会長。郷土史研究の第一人者として、近代、明治、大正までの仙台市の歴史に詳しい。

※これから旅が終わるまでのあいだ、ずっとナビゲートしていただきます。

勾当台通

養賢堂ものがたり

ハイレベルな学問を教えていた藩校養賢堂

 藩校養賢堂。その歴史をたどると明治以降に東北大学、東北学院大学、宮城学院女子大学など歴史ある大学が創設され、学都仙台とよばれるようになった源流を見る思いがする。

 藩校が創設されたのは、5代藩主吉村の時代。吉村は子弟教育の重要性を説いた儒者高橋玉斎の建議を取り入れ、細横丁(現在の仙台木町通小学校付近)に藩の学問所を設立。

 7代藩主重村の時代に勾当台に新築移転し、明和8年(1771)以降に養賢堂と称するようになり、武士の子弟たちは文武両道を学んだ。
 養賢堂では、学制改革と校舎拡張に取り組んだ2代目学頭大槻平泉をはじめ、大槻家出身の代々の学頭がつとめた。ちなみに日本最初の国語辞典「言海」の著者大槻文彦は、4代学頭大槻盤渓息子。文彦は旧宮城師範学校・旧仙台一中の初代校長になった人。

 では、養賢堂ではどんなカリキュラムがあったのだろうか? 子弟は早朝に登校して書を読む「朝読み」から始まり、読書や習字をして1日を過ごた。学問の中心は朱子学。しかし、仙台藩学の中で特筆されるのは数学の科目があったこと。諸藩にはない数学があったことで「実学を基礎に力を入れている。さすが養賢堂」と他藩から賞賛されたという。これは武士も平素から数に関する鍛練をしていなければ何事もなしえないという大槻平泉の考えによるものという。

 そして、3代学頭習斎の時からはロシア語、鋳砲、造船、射撃などに関する講義も行われた。時代の行く末を見極め、新たな分野の学問も積極的に取り入れたといえる。

 なお、武芸は剣術、居合、槍術、長刀術、弓術、柔術、捕手術、棒術、鎌術、三ッ道具、銃砲術、馬術があった。

 最盛期、養賢堂には生徒が1000人以上、教職員は約200人いたという。現在なら、全国有数の総合大学という形のものであった。仙台や松島に来た諸藩の人たちの多くは、養賢堂を訪れその文教の興隆に驚いたという。

 しかし、明治初年(1868)戊辰戦争の時には官軍に占拠され、明治4年(1871)の廃藩により藩校としての役目を終えた。そして、建物は明治時代以降は宮城県庁として使用されることになった。維新後には大槻文彦をはじめ、養賢堂の優秀な教師たちが宮城県の教育を担うことになり、また、全国で養賢堂出身の俊才たちが活躍した。

吉田松陰も感服した養賢堂の学識

 養賢堂は学都仙台の基礎を作ったところだと思いますよ。明治維新前後の激動の時代に養賢堂の先進的な学問が役立ったのです。幕末の頃には、語学ではオランダ語、ロシア語の講義を行っていましたが、それにより外国からの知識や情報も他藩に先がけて入っていたようです。

 そして、他藩にはない数学もありました。これは鉄砲の弾道計算に役立ちました。松下村塾の吉田松陰が視察にやってきて、この先進的な取り組みに驚きすぐに松下村塾でも取り入れたといいます。造船技術の研究もしており、幕末には寒風沢島(現塩竈市)で開成丸という軍艦も造りました。このように、養賢堂の果たした役割は図り知れません。


いま、養賢堂の正門はなぜか南鍛冶町の泰心院の山門に

 代々養賢堂の学頭をつとめた大槻家の子孫大槻文彦によれば、養賢堂の正門は、はじめは北一番丁側にあったが、大槻平泉が学制改革や学舎の拡充をはかって勾当台通に移したものだという。

 養賢堂構内西北角には、火見櫓が建てられ、火事があると愛宕山の鐘と呼応して半鐘が仙台各所に鳴り響いたという。

 藩学の中心となった養賢堂の建物は、明治維新後、宮城県庁庁舎として使用された。この時に、どっしりとした造りの正門は南鍛冶町にある泰心院の山門として払い下げられたのである。一説には30円で払い下げられたといわれているが、なぜ山門として移されたのだろうか?

 明治維新以後、さまざまな制度の改革が次々に打ち出され、西欧の文化や様式を急いで取り入れる気風があった。その中で門は、旧式のシンボルように考えられ、これを取り除いて白いペンキ塗りの西洋風の門が新しく建てられたといわれている。

 泰心院は宗洞宗の寺院で伊達稙宗夫人台心院の位牌寺であるものの、明治維新の廃仏棄釈の風潮の中で、なぜ泰心院の山門になったのかというはっきりとした理由は分かっていない。ただ、この門は競売にかけられたものなので、泰心院に財政的余裕があったことだけは確かなようだ。

 昭和6年(1931)東隣りに新県庁舎が建てられたため、県庁として使用されていた養賢堂の建物は、その役目を終えた。大正時代に国の史跡名勝に指定された貴重な建物であることから長く保存することが決められていたが、残念ながら、昭和20年(1945)の仙台空襲で消失してしまったのである。

払い下げられたからこそ残った養賢堂の正門

 仙台空襲で藩政時代から続く貴重な建物は次々に消失しました。県庁として使用された養賢堂も2階建ての立派な建物でしたから残念なことです。養賢堂の正門も泰心院の山門になっていなければ、やはり消失してしまっていたでしょうから、歴史のいたずらというか、幸運というか…。いずれにしても、どっしりとした山門を見ると、養賢堂がどんなに立派な建物かが想像できますよ。一度ご覧になってみてください。

 なお、『泰心院』はもともとは稙宗夫人台心院にちなみ『台心院』という字が使われていましたが、政宗公がよりよい意味の『泰心』という字に改めたのです。



下記丁(げきちょう)


 藩校養賢堂の立派な建物を想像しながら宮城県警の東側へ歩いていきます。この界隈は外記丁。ここもビルが並んでいて、昔を想像させるようなものはありません。その昔、仙台藩士の斎藤外記が住んでいた屋敷があったのだそう。藩政時代の数多くの町名の中で、外記は唯一自分の名前を町名として残した武士です。

 さて、どんな武士だったのでしょうか?

下記丁

斎藤家ものがたり

町名なった斎藤外記(さいとうげき)という人物はどんな人?

  自分の名前を町の名前に残した斎藤外記。いったい彼は、どんな人物で、どのような由来で名前を残すことになったのだろうか?さまざまな資料をたどっていくと、ドラマチックな生涯を送った外記の人物像が浮かび上がってくる。


 「仙台人名辞書」には「斎藤外記、勇士。諱は永門。外記と称す」とある。先祖は平泉藤原家の流れをくむ豊後入道藤原道厚永古。

 最初、斎藤外記は伊達政宗の米沢時代に無禄で仕え、岩出山を経て仙台に移った後に50石を賜り、給主組頭となった。その後罪を得て禄を没収されたものの盗賊逮捕の功労により再び165石で再び召し抱えられた。大阪の陣の時には成田町(現仙台市成田町)の足軽を率いて活躍し武功を上げた。また、無断で伊達家を離れた者を見つけたり、身をやつして隠密のようなことをしたりしてさまざまな功績を上げた。これにより政宗から1000石を与えられることを約束された。


 しかし、外記は「臣敢えて財物を望まず。臣が住居するに所に臣が名を以てするを得ば、誠に望外の幸福なり」(仙台近古史談)といい、寛永5年(1628)4月19日に500石の知行と政宗の酒杯を賜り、望み通り自分の名を町名とすることを許された。

 その後も謀反者の窪田十郎を撃つなど功労を重ねた。晩年には柴田町(現仙台市柴田町)の足軽百人の武頭となり、朱柄の槍を与えられ、これを隊印として使用することを許された。寛永12年(1635)3月にその勇猛果敢な波乱の65歳の生涯を閉じたのである。

仙台市内に今も住む斎藤家

 仙台藩の草創期に伊達政宗に仕え「豪勇」と評された斎藤外記。その子孫で斎藤家16代目当主が大久保永太郎さん。現在仙台市青葉区の住宅街に住んでおり、その風貌には旧家を受け継いでいる風格がただよう。

 「斎藤家では、代々男子は『永』という字を付けた名前にします。私は15代目斎藤永孚の長男ですが、母方の大久保家も継がなければなりませんでしたので、大久保姓となりました。

 斎藤家の菩提寺は東九番丁にある光寿院(外記33回忌の供養碑が現存)。しかしながら大久保家はカトリック。現在、宗教が違う斎藤家、大久保家両家の墓を守っているので大変です(笑)。

 代々受け継がれてきた斎藤家の遺品も大切に継いでいます。外記に関するものの中で最も重要な品は酒盃と伊達政宗像です」

 真綿に包まれ、箱に入った盃を出してくれた。政宗から500石の知行割と盃を賜るという政宗の黒印が押された書状もある由緒正しい盃だ。色落ちや傷がひとつもなくつややかな朱赤の漆塗りの盃には、長く大切に保存してきた斎藤家の人々の想いを感じさせる。

 また、伊達政宗の木造は茶の間に置かれている。39歳の時のものといわれ、はっきりと片目がつぶれている像は珍しいとされている。高さは約50cm。きりりとした表情の伊達62万石の祖・伊達政宗像である。

 「ある資料によると同じような像が4体作られ、現在唯一残っている1体ではないかといわれています。残りは戦災などで消失したということです。どういういきさつで斎藤家に伝わっているのかは定かではありませんが、仙台市博物館の調査でとても貴重なものだということが分かりました。この像は、今年5月24日(伊達政宗命日)頃から仙台市博物館に寄託したいと思っています。このまま個人で持っているよりもきちんと保存してくれると思いますので。こうした貴重な品々をどのような形で後世に残したらよいか…最善の方法を考えるのも斎藤家を継ぐ私の役目ではないかと思っています」

 斎藤外記について子孫としての感想をうかがった。

 「いろいろ調べてみると政宗としょっちゅう衝突して脱藩しているんですね。正義感に富んでいて仇討ちの助太刀を無断でしたとして怒りを買い、知行没収の上江島(現女川町)に流されたこともあったようです。そうかと思えば、政宗のために薬屋になって隠密のようなこともしたりしているのです。政宗の命により登米郡東和町米川のかくれキリシタンの保護にあたっていたこともありました。つまり、手柄を立ててまた知行をもらい士官するというようなことを繰り返していたようです。

 政宗と外記は年齢があまり違いません。主従の関係ではありましたが、きっとお互いが信頼できる友人のような、兄弟のような関係だったのかも知れません。だから、500石でいいから、その代わりに名前を町名につけたいというような『気まま』も聞いてもらえたのではないでしょうか」

政宗公の信頼が厚かった外記

 斎藤外記という人は、何度も追放されては、また手柄を立てて再び召し抱えられています。わざと追放される形をとり、浪人となって各地を探索して歩いていたとも考えられます。いわば、政宗のために働く必殺仕置人のような人。それだけに政宗公の信頼が厚かったのではないかと思います。


外記の性格を受け継いだ子孫たち

 永太郎さんによれば、斎藤外記のエネルギッシュで豪胆な性格は綿々と子孫に受け継がれてきたという。

 12代目斎藤永配は、幕末期に歌人として活躍し、養賢堂4代目学頭大槻盤渓や蘭学者との交流もあった人物。当時幕府に追われ全国を逃げ回っていた幕末の思想家・高野長英をかくまったといわれている。また、全国の俳人と交流し情報の交わりが多く、当時横浜に寄港していたペリー来航時の状況文と絵図が残っている。外記の時代とは違うものの、永配もまた激動の時代を生きた人である。明治10年(1877)85歳で亡くなった。

 永太郎さんの祖父・14代目斎藤永儀もまた明治という時代をたくましく生きた人。若い頃には明治の経済界の重鎮渋沢栄一の書生となり、仙台に戻ってから明治6年、日本銀行仙台支店の創設に関わった。その後、運送会社を創設し大きく発展させた。当時としては珍しいブラスバンドのクラブも作り、洋楽普及にも努めた。

 「宮内庁から子爵に取り立てるといわれたのに、もったいないことに『そんなことになると不自由だから』と断ったのだそうです(笑)。そうしたら、子爵にする代わりにと天皇杯が送られてきたのだそうです」。外記の姿をほうふつとさせるエピソードである。

 この銀の三つ重ねの天皇杯も真綿に包まれ、箱に入れて大切に保存されている。

 そして、現在の当主永太郎さん。東北七県私学父母の会理事、宮城県私立小中高等学校父母連合会副会長などを長くつとめ、一生をボランティアに捧げてこれまで過ごしてきた。生計を維持する家作に恵まれていたというものの、あまり地位や財産にこだわらないという外記の性格をきっちりと受け継いでいるように思われる。

 「外記丁が道路の通称名として復活することになりましたが、外記の子孫としてあのような人生を送った人もいたのだと皆さんに振り返ってもらえれば幸いです」。
 かつて仙台には斎藤外記のようにその身分に安住せず、常に自ら苦難に飛び込みながら濃厚な人生を駆け抜けた人もいた。日本全体に閉塞感がただよう現代、外記の生き方は新鮮に見えてくる。



同心町通(どうしんまちどおり)
長刀丁(なぎなたちょう)
空堀丁(からほりちょう)


 広い愛宕上杉通を渡ってNHK仙台放送局の前へ。裏手にある錦町公園東南あたりが同心町通。町奉行の配下で府内の治安にあたっていた役人を同心といいますが、その同心たちの屋敷があったところが同心町。花京院から北三番丁までの同心町に通ずる道が同心町通です。
 同心町通と交差しているのが長刀丁。道の形が長刀に似ていることから付いた名前なのだそう。空堀丁は長刀丁から花京院通までのエリアを指します。雨水を流す排水路の空堀がありました。一般に、仙台の町は雨や雪溶けの頃には、排水が悪くすぐに泥んこになり、そして、いったん乾燥すると土埃が舞い上がりました。17世紀末に空堀が作られたのは、こうした状況を少しでも改善する目的もあったのでしょう。
 この界隈も侍町でしたが、やはりビルやマンションが多いところです。建築途中のビルも少なくありません。個人の住宅が建つ細い路地に入ると藩政時代の面影がないものの、少しだけほっとします。

不遇な人にもやさしかった
藩政時代のシステム

 藩政時代の町の名前には町人や職人が住む「町」が付くところと、侍が住む「丁」が付くところがあります。ですから、町名からも空堀丁も長刀丁も侍町だったことが分かります。

 城下町の出入り口は夕方になると閉められて自由に往来することができなくなります。しかし、夜でも自由に往来することができた人々がいました。それは按摩と乞食。そして、乞食頭は十手持ちの手下でした。つまり、24時間自由に動けるようにし、彼らの生活を保障していたのです。

 藩政時代には厳然とした身分制度があり大変な時代のような気もしますが、実は不遇の人々が生き続けるような配慮がいろいろあったんですよ。

 たとえば、知能の遅れた障害者は『福の神』と考えられていましたので、商家や金持ちが養っていました。金貸しという商売は、盲人、修験者、浪人しかできないことになっていました。福祉制度が整えられている現代よりも、ぎすぎすしてなかったような気がします。庶民が生きやすいようなシステムがあったのです。300年も続いた藩政時代。続いたのはそれなりの理由があったのですよ。


主な参考文献 
養賢堂からの出発(ぎょうせい)
仙台あちらこちら(宝文堂)
仙台風俗志(歴史図書社)
宮城県の歴史散歩(川出版社)
城下町仙台を歩く 歴史的町名ハンドブック(仙台市)
仙台藩歴史事典(仙台郷土研究会)


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