旧町名を巡る旅

PART.3 町人町で、お買い物♪

芭蕉の辻(ばしょうのつじ)が中心地? 御譜代町(ごふだいまち)って、何だろう? いまとは違う江戸時代の町人町で忘れかけていた人情に出合う。


 東二番丁通りから桜ヶ岡公園まで伸びる大町通り、そして、これに平行している肴町通り。
 この界隈は、藩政時代に町人町の中でも御譜代町としてにぎわっていたところ。歴史の流れと共にどんな変遷があったのでしょうか。今回は御譜代町の歴史を紹介すると共にこの界隈の店や人々の暮らしを紹介します。
 では、いざっ、町人町へ! 平成の御譜代町はどんな町?



御譜代町って?


 御譜代町(ごふだいまち)の「譜代」とは、代々主家に仕えること。殿様が城を移すとき一緒に移動したのは侍だけでなく、一部の商人もそうでした。この商人たちで構成されたのが御譜代町。


 仙台は江戸時代に全国有数の規模の城下町でした。町人町は24町あったことから、町方二十四ヵ町
(まちかたにじゅうよんかちょう)と称されました。この町方二十四ヵ町には序列があり、その上位は大町(おおまち)、肴町(さかなまち)、立町(たちまち)など六つの御譜代町でした。


 主君である伊達氏と共に米沢、岩出山を経て仙台まで移り住んできた「伊達御供衆」が作り上げた町です。御譜代町の序列は大町を筆頭に定められており、その序列は厳しく守られていました。宮町にある東照宮のお祭りでは各町内から山車が練り歩きますが、町の特色を出した山車を見るために、遠くからも人が群れ集ったといいます。


 時代が下ると共に伊達御供衆以外の商人も御譜代町に住むようになりましたが、伊達御供衆は代々誇りを持って生き続けました。御譜代町には定期市を開く特権や商売の専売権などが藩から与えられ保護されました。


 なお、御譜代町に次ぐ序列になっているのが、国分町、北目町、二日町、田町など。御譜代町の周辺に仙台近郊の住民を移住させて作られた町です。


 まずは、御譜代町の上位に序せられていた大町、肴町界隈の歴史からひも解いてみましょう。

町方二十四カ町
序列

町名

町の役割と主な専売品
1 大町三四五丁目 木綿・絹布・小間物・油
2 肴町 魚類・五十集物(干物など水産物)
3 南町 八百屋物・干物・荒物雑貨
4 立町 穀物
5 柳町
6 荒町
7 国分町 伝馬町(馬市が開かれていた)
8 本材木町 特になし
9 北材木町 伝馬町・木材
10 北目町 伝馬町
11 二日町 穀物
12 染師町 染物職人の町・絹類の染め
13 田町
14 新伝馬町 伝馬町・穀物・五十集物・塩屋
15 穀町 穀物
16 南材木町 材木・たばこ
17 河原町 野菜類(八百物市が開かれた)
18 大町一二丁目 古着・呉服太物
19 上御宮町 東照宮の門前町
20 下御宮町 東照宮の門前町
21 亀岡町 亀岡八幡宮の門前町・酢
22 支倉澱橋町 特になし
23 北鍛冶町 鍛冶職人の町
24 南鍛冶町 鍛冶職人の町

※町ごとの序列、職業や専売権などは年代によって多少の変動がある

大町あたり

藩内一の繁華街

 一丁目には古手(古着)、二丁目から四丁目までは木綿・絹布、小間物、五丁目には油を商う商人が集まっており、藩はそれらの商品の専売権を認めていました。そのため、次第に豪商として繁栄を遂げた商人も少なくありませんでした。特に政宗が連れてきた近江商人が住む大町一・二丁目は大店が並んでいました。なお、藩政時代は城に近いほうから一丁目、二丁目と定められましたので、現在の地番と逆になっています。

 そして、大町と国分町、南町とが交差した芭蕉の辻は、四隅に豪華な楼郭風の土蔵造りの店が建てられていました。仙台の町の偉容を示すシンボル的存在で、一日中人々が行き交いにぎわったところでした。

 明治維新後も藩政時代から続く老舗が店を構え、明治11年創業の七十七銀行本店が置かれたのも大町一丁目でした。

 その風景を一変させたのが昭和20年の仙台空襲。大町を含む市内中心部がほとんど消失。藩政時代の面影をしのばせるものも消え去ってしまいました。代々住んでいた人たちの中には別の土地で商売を始めたものもあり、仙台市内の老舗の拠点も一番町などに移っていきました。



肴町(さかなまち)


威勢のいい町民の町

 現在の肴町公園の西隣に魚市場が置かれ、五十集物(水産物)を扱う問屋が集まり、水産物を専売し藩に納める水産物を扱う御日肴所がありました。町内には肴に関連する商人たちの店が軒を連ね、他領の交易の商人たちが泊まる宿があり、活気あふれた町でした。

魚と魚屋はイキの良さが勝負!

 一心太助に代表されるように威勢のよさで知られる魚屋さん。魚関連の商人たちの町で、町火消しが置かれていた町でもあった肴町はまさしく威勢がよい町でした。7月に行われる肴町独自の「浜祭り」では、毎日商う魚類の供養の後に、鯨などの作り物をかつぎ、大名行列を模してユーモラスに練り歩く様子が喝采を拍したといいます。東照宮の祭りでの大ダコの山車も肴町ならではのものでした。

 明治時代になってからも、肴市場を中心に賑わいが続きました。流通経路の発達と共に閖上や石巻で水揚げされた魚介類が多く運ばれ、競りにかけられ、リヤカーや馬車で各地に運ばれていきました。その中には、関山峠まで運ばれ、山形の農産物と交換されたりしたものもありました。肴町にあった阿部菊旅館や岩松旅館には、肴卸商人が泊まったり、陸軍第二師団に駐屯している兵隊たちの家族が泊まったりして繁盛ました。さらに大正、昭和になると飲食店なども数多く立ち並びました。

 しかしながら、戦災によりそのたたずまいも賑わいも失ってしまったのは大町同様。さらに昭和35年に魚市場が宮城野原に移転し、海産物に関連する店も次第に少なくなりました。現在1軒だけある魚屋さんも昭和57年頃に移り住んできたのだそう。

御譜代町を襲った戦災

 戦災は仙台市内の町並を一変させました。

 肴町の北隣にあたり、現在の広瀬通りあたりが藩政時代の立町にあたります。専売権のある穀物問屋を中心にして栄えた町。慶長年間に藩の兵糧用として糒の製造所が5ヵ所に設置されましたが、この町の夏井藤兵衛はその中心で、子孫は明治になってからも製造販売を続けました。

 激しく車が行き交う広瀬通りからは想像できない立町がかつてはあったのです。

 なお、立町、二日町、穀町、新伝馬町は四穀町と呼ばれ、それぞれ穀物の専売権が与えられていました。

鯛味噌は鯛が獲れすぎて考えられた保存食

 とにかく肴町は活気のある町でした。肴に関連する商売は何でもありました。氷屋や海産物屋はもちろん、魚を串刺しにする串屋もあったんですよ。鯛味噌屋さんもありましたが、これは獲れすぎた鯛の保存方法として考えられたもの。今では高級魚になってしまった鯛が獲れすぎて困った時代もあったということです。

 肴町の浜祭りはとても盛んでした。現在七夕でお茶屋さんが見せてくれる仕掛け物もその昔この浜祭りで生まれたもの。1階の屋根の上に仕掛けを作って見物客に見せてくれました。
 また、町火消しも二組あり、威勢のよい魚屋たちが火消しとなって活躍しました。
 とにかく元気に商売をするお祭り好きの町民たちの町だったのです。




町を元気にするのは私たち

御譜代町まちづくり実行会に聞く

上村甚一さん

御譜代町まちづくり実行会メンバー。大町町内会会長。約120年豆腐を作り続けている上村豆腐店3代目。
問/上村豆腐店電話022-222-2810

川合清重さん

御譜代町まちづくり実行会メンバー。明治時代から婦人化粧品兼小間物などを商う川合家3代目。現在、食品雑貨の店・ショッパーズカワイ主人。
問/ショッパーズカワイ電話022-222-2763


Q.そもそも御譜代町まちづくり実行会を作ったのはどんなきっかけだったのですか?

<上村>この会は昭和63年に立ち上げました。当時はバブル時代。この町で商売を続けてきた人たちが次々にいなくなり、その後にはビルが建ち始めました。このままにしていては寂れてしまう…なんとか自分たち住民の手で元気な町にしていかなければ、と考えたのです。

<川合>子どもたちや孫たちが「この町にずっと住みたい」と思える町、魅力ある町にしていかなければと思ったんです。そのためには、大町町内会だけで、肴町町内会だけでがんばっていたのでは駄目だ、藩政時代から続く御譜代町の伝統を持つ各町内会が集まって一緒に行動しようと考えて作ったのです。

Q.具体的にはどんな活動をしているのですか?

<上村>平成2年には城下町仙台の御譜代町の伝統を伝えていこうと大町交番近くに火の見櫓を建てました。それから西公園内で桜祭り、夏祭り、秋祭りを行っています。元旦には桜岡大神宮で甘酒を振舞っています。
 桜祭りの時に西公園に灯される提灯はわれわれが下げたもの。ルールを守って花見をしていただきたいと、仙台市の担当者と協力して毎日警備もしているんですよ。

<川合>なぜ、西公園にこだわるかというと、大町も、肴町も、立町も西に行けば必ず西公園に突き当たる。つまり人が流れていかないんです。西公園に人を呼び込めば各町内に人の流れが生まれ、にぎわっていくと思ったのです。地下鉄東西線が早く完成して、西公園近くに駅ができればさらにいいんですけどね。

<上村>それから、国分町や大町界隈を中心に毎週金曜日にはピンクチラシ撲滅運動もしています。川合さんは熱心にやってくれてますよ。冒険談を聞いてください(笑)。

<川合>ピンクチラシの「撒き屋」を追いかけて捕まえたこともありますよ(笑)。ものすごい数のピンクチラシの隠し場所を突き止めたこともあります。ピンクチラシをそのままにしておくのは仙台市民の恥。第一にそんな町に孫たちが安心して住めないじゃないですか。

<上村>藩政時代には大町と肴町は張り合っていました。大町の商家の屋根に鬼門除けの鬼瓦を上げたので、それに対抗して肴町の商家では鬼を睨み返すために屋根の上に鐘馗様の像を上げていたんです。どちらも残念ながら戦災で消失してしまいましたけれども。しかしながら、現在の各町内は仲良く協力していろいろ活動してますし、ずっと続けていきたいですね。

<川合>そうです。次の世代にこの活動を繋げるようにがんばっていきたいと思います。そして、ここにずっと住んでいてよかったと思える町にしたいんですよ。



大町・肴町・立町あたりの店あれこれ
(PDFファイルです。Adebe Acrobat Readerでご覧いただけます)


主な参考文献 
仙台市史」(仙台市)

「城下町を歩く 歴史的町名ハンドブック」(仙台市)


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