プロフィール

・第6回『源義経編』・

 今年はNHK大河ドラマのおかげで源義経公のブームですねえ。いうまでもなく、幼名を牛若丸と称し元服して源九郎義経と名乗り、日本史の一時代を華麗に彩った悲劇の武将。平家を西海に沈め源氏の時代を招来しながらも、自らは東北の平泉の地で自刀して果てたといわれます。でもねえ、事実とされたことが真実とは限らないのが歴史というものなんですよお…。

 日本史上で、「一番好きな武将は?」と聞かれたら、僕はちょっと悩んでしまうんですよ。約800年前の悲劇の武将こと御存じ‘考’に生きた源義経公と約600年前に‘忠’一筋に生き切った楠正行公(くすのきまさつら)の二殿の何れが上とも言い難くて…。                                 

 源義経公はその初陣とも言える一の谷の合戦で一門わずか350騎の小勢で2000余騎の平家軍を駆逐した話が有名ですが、楠正行公は手勢わずか2000余騎で20000余騎とも言われる敵軍を蹴散らした殿なのです。すごいと思いませんか?この殿は、戦前には日本史上類稀(たぐいまれ)な英雄として讃えられながら、戦後は一転して極悪人として扱われた楠木正成公(くすのきまさしげ)の御嫡子(ちゃくし)で父君を大楠公(だいなんこう)正行公を小楠公(しょうなんこう)と尊称されていますが、大楠公の陰に隠れて正行公は今一つ有名ではないみたいです。僕には義経公と同等の偉大な殿なんだけど…おっと、小楠公の話はまたいつかと言うことで…


 源九郎判官義経。幼名が牛若丸。源氏の頭殿(こうのとの)、つまり源氏直系の総大将、源義朝の嫡男。鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟です。
 源氏と言うのはその祖を清和天皇に置いています(ちなみに平氏は桓武天皇から始まります)。…が、ある口伝によると、源氏の源流はさらに遠く『古事記』や『日本書紀』に描かれる神武天皇東征にまでさかのぼります。神話で描かれる光輝く鳥‘八咫鴉(やたがらす)’というは八咫鴉族という青銅を使う一族のことで、彼等が神武天皇を助けた話を象徴的に残したものなんですね。青銅は光に映えて輝きますから。八咫鴉族は天皇をお護りする一族として神武天皇に付き従って都まで行き名前も八咫鴉から賀茂と改めます。京都の上賀茂・下賀茂神社というのは賀茂族の族長と奥方様を祀ったのが始まりであったとも謂われています。そして、この一族が源氏の源流だということです。


 日本史上初の武士団同士の合戦と謂われる保元の乱(保元元年・1156)で平清盛と共に戦った源義朝でしたが、平治の乱(平治元年・1159)では敵同士としてまみえて敗(やぶ)れ、敗走中にかくまってくれたはずの味方の裏切りにあい、あえない最後をとげます。その義朝の奥方は常磐御前という都一の美女であったといいます。良人(おっと)の義朝公が敗軍の将となったために、常磐御前もまだ乳飲み子の牛若丸と今若・乙若の三人の幼い兄弟をつれて雪の中を逃げますが、結局は追っ手に捕まってしまい、幼い兄弟たちはそれぞれ別の寺へとあずけられてしまいました。牛若丸は鞍馬寺に入れられました。 


 しかし、牛若丸はいつしか自分の父親が源氏の大将ということや、今、国を動かしている平家が父親の敵(かたき)であることを知りました。教えたのは、多分樵夫(きこり)や農夫に身を変えて鞍馬山の近くに住みながら牛若丸を陰ながら見守ってきた源氏の若者達だったのでしょう。彼等は幼い牛若丸と密かに出会っては共に源氏の再興(さいこう)を願って武術の稽古(けいこ)にはげんでいたのです。世に言う鞍馬山で牛若丸に剣術を教えた鴉天狗(からすてんぐ)が彼等でした。やがて、牛若丸は奥州藤原氏から送り込まれた金売りの吉次に伴われて奥州…つまり、今の東北地方は岩手県の平泉に在る柳御所こと藤原秀衡公の居城へと渡るのでした。


 金売り吉次というのは奥州の雄・藤原秀衡公の命を受けて、京と平泉を往還(おうかん)して交易の任にあたっていた商人…と、言われていますが、むしろ500人からの軍団を束ねる侍大将だったのです。当時の東北地方は大変な産金量を誇っていました。マルコポーロが黄金の国ジパングと言ったのは、間違いなく平泉を中心にした黄金の国奥州のことなのです。莫大な量の金や青森県の北端に在る十三湊(とさみなと)を交易港として大陸から輸入した産品を大量に京へと運ぶのですから、荷馬車や荷車を運ぶ人足だけで旅をするわけには行かないのです。今の日本のような安全な日本ではなかったのですから、必ず最低でも500人の武士団を伴っていたと言います。その全軍団を統率していたのが金売り吉次でした。鞍馬から出奔(しゅっぽん)した牛若丸が平家の追討の手から逃れるのには金売り吉次軍団は申し分ない隠れみのでもあり、護衛の武士団だったのです。


 京都から平泉に向かう途上、名古屋の熱田神宮で自ら元服の儀式を執り行って名前を牛若丸から源九郎義経と改めました。よく言われる源九郎判官義経という時の判官と言うのは後に任じられた役職名です。ついでに言うと、“遮那王”と言う呼び名…なんか格好いい呼称だからか好く漫画や小説でも使われますよね。“牛若丸”と言うのは少し幼い絵本のイメージがあって、“遮那王”と言うと少々大人びた“少年牛若丸”って雰囲気があるからかもしれませんね。でも、実際には「遮那王さま」なんて
牛若丸本人が誰かに呼ばれたことはないんですよ。有り得ないんです。“遮那王”と言う尊称は源義経公の偉大な事蹟をたたえて後から付けられた仏教名なんですから。


 吉川英治の『新・平家物語』は近代の源平物ではもっとも優れている作品と思いますが、吉川氏でも「遮那王牛若丸」と書いてますからね。その後の人が皆間違うのも仕方ないかも知れないなあ…。とは言え、『新・平家物語』はただの古典平家のリメイクじゃあないです。御自分でも『新・平家物語』は何か見えない力で書かされた様に思えることがある…みたいな一文を何かに書いていましたけど、そう言うことはたしかにあると思います。例えば、おそらく気がつかないままに弁慶殿の本名を書いていますし、作中の想像上の人物としていた阿部麻鳥と言う方も実在していましたから。


 源九郎義経と成った牛若丸は、金売り吉次軍団に守られながら、奥州の藤原秀衡公の元へと逃げ延びます。こうして、義経公は歴史の表舞台からはひととき姿を消します。次に姿を現すのは平家を討てとの以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて平家打倒に立ち上がった兄・源頼朝公に会うために250騎ばかりの武士団を従えて頼朝公が陣を張る黄瀬川にたどり着く日まで待たなければなりません。


おしまい

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